道化師の戯言

夏の日の思い出は…

不動滝

 滝を右に迂回して登り渓流に沿って1時間程進んだ先に合流する支流の丸太橋があり、その手前の僅かに判別できる夏草の細道を右に分け入り、2時間半登りつめて汗まみれで山小屋に到着した。

 無人で電気もないが詰めれば15人位は泊まれる小さな山小屋で、白樺の木々に抱かれた別天地は、いつもと変わらない雰囲気だった。

 しかし、一瞬驚いたのは、人の気配だった。この先の登山道は、随分以前に崩落があって通行不能になっていたから、誰も来ないはずと思っていたのだ。 

 脇を流れる沢の上の方から若い女性の声が聞こえた。しかし、姿は見えない。独りを満喫するはずだったのにと思いながら山小屋に入ると、女性がいた。

「こんにちは、登って来るのが見えましたよ。」と言われた。「お友達は、沢の方にいるのですね?」と言いながらザックを下ろすと、「いいえ、わたし一人です…」と笑顔…。霊的感覚なしの無防備状態で登って来たのは、迂闊だった。

 そこは、標高2000m近い山中だ。白い水玉模様の赤いワンピースに白いパンプス姿は、あり得ない。荷物もない。しかし、霊的には、普通の人間だ。「登山じゃあないですよね?」と問うと「ええ、子良さんに会ってみたかったので…」。名前を知っていた!?

 聡明ですっきりした顔立ちの香川鞠子と名乗る若い女性は、15分程でつば広の麦わら帽を持って急ぎ足で山小屋を出ていった。狐につままれたのか、と思った。30年以上も前のことだが、滝を見るといつもこの不可思議現象を思い出す…。     (2014.07.24) 




舞い込んだ誘惑とは…

不動明王種子荘厳梵字

 大学院で共同研究をしていたドイツ人の友人から1年振りに電話があり、成田空港まで迎えに行きました。

 6年前に学会で来日した時以来の再会でした。現在の彼は、某大学の教授で今も東洋哲学研究者です。当時は、同じ年で一番仲がいい大事な友人でした。

 開口一番「大学の研究室に招聘したい」とのことでした。驚きでしたが冗談として一笑に付しました。40年も昔に戻れと言われても、おとぎ話の世界としか思えませんでした。

 悉曇学(しったんがく=古代梵字研究)からすっかり離れてしまっている今のわたしには、学問的研究者としての技量も知恵もありません。彼の真意が掴めないまま、その日は高輪のホテルに泊まり深夜まで語り合いました。

 翌日、同行して欲しいと言うので本当に久し振りに本郷の大学に行きました。 建物も導線も雰囲気も学生たちも今風に変わってしまっていて、知らない所になっていました。昔の大学院研究棟はなく、ガラス張りの建物に変貌していました。時の流れの現実を見せつけられました。

 事前に話ができていたらしく、10人余りの研究者と奇妙な発音の英語と日本語のちゃんぽんで喋っていました。しかし、会話の内容は、身震いする程あの頃の熱き思いを甦らせて、一瞬時が遡ったように錯覚しました。天上界と関わってなければ、彼と同じ世界にいたかも知れない…。

 5日後、羽田空港で「招聘の回答は今年中に頼む」と言い残して帰って行った。彼は、本気だった。 翌日、無事帰還の電話があり、「来年の9月にフランクフルトで始まる」と3回も言った。ドイツ暮らしもいいかも知れない…。        (2014.06.23)




煩悩の支配からは逃れられない…

石段

 まったく人間の「勝手さ」には閉口します。とは言っても、わたし自身も同じ穴の狢なのですが…。 誰もが自分を第一番に考えるようにできているのですねぇ…。

 煩悩です…。あなたの中にも居る厄介な化け物ですよ…。でたらめな「強欲」を引出したり、「自堕落」な日常を誘惑する張本人です。煩悩は、とんでもない奴で、どれ程修行を積んでも太刀打ちできる相手ではありません。

 果たして、あなたはどうでしょうか…? あなたの中の煩悩は、どうしていますか…? 勿論、煩悩を認識することは不可能ですが、個性の強い人や自意識の浮き沈みが激しい人などは、やはり煩悩が強いということですよ…。

 人の失敗をいい気味だと思いませんか…? 人の成功を冷めた目で見ていませんか…? 自分がいじめた人が悩む姿を愉快に思いませんか…? わからなければ何をしてもいいと思っていませんか…? 社会的に低い人を見下していませんか…? 嘘をついても構わないと思っていませんか…? 自分の暗部にいつも目を閉じていませんか…?

 失礼ですが、どんなに真面目で几帳面できちんとしたつもりの人でも、上記の問いは、否定できないでしょう。勿論、自我の塊の見本のようなわたしは、当然ですが毎日が煩悩まみれであります。しかし、この面倒くさい煩悩を意識するかしないかで、大きな違いが出てきます。あなたにも、是非とも意識してもらいたいですねぇ…。 (2013.08.21)  



天門庵は、原点に立ち戻ります… 

胎蔵界大日如来種子荘厳梵字

 何事も終わりが近づくと諸々がざわつき、また、諸々に急な変化などが生じるものです。 それらの事象は、時として周囲を迷わせ混乱させ、少なからず動揺を誘います。その様子は、線香が消える直前に大きく揺らぎながら立ち昇る一瞬の太い一筋の煙に似ています。

 23年前の5月1日の朝、新宿の路傍から始まった天門庵の霊符活動の趣旨は、ひとりでも多くの人々に「力のある守護符」をお渡しするという使命感による素朴な行為でした。 無我夢中で「石符」を刻み、精一杯の霊力を注ぎ続けました。

 その後は、神田の路傍に移り、最終的には故郷の川越に落ち着き14年が経過しました。何万人の人々と語ったのでしょうか? 数えきれない貴重なご縁を本当にたくさん頂戴いたしました。 これまで例え僅かでも天門庵に関わってくださった総ての人々に、心底より感謝をいたします。                         
 日々の活動では、実にいろいろな体験をさせていただき、宛ら「道端の冒険劇場」の様でした。 天上界の指示を受けながら試行錯誤の末に多種の「守護符」を導出し、それが程なくして驚きの効果をもたらし、たくさんの人々の心の拠り所として認知を得るに至りました。わたしにとりましては、有難くもありまた、無上の喜びでもありました。

 破天荒だったあの頃を懐かしく回想しながら、山顚に近づく自分を猛省しています。 最近のわたしは、そこはかとない焦りがありました。2012年10月の緊急入院をしてからは、「作品はできていない…」という仕事への焦りでした。体調を崩してからの9ヵ月間は、何かをしたくても常に危険と背中合わせで、何もできませんでした。

 葛藤の中で悔し紛れにパソコンに向かい、自分勝手な御託を並べて書き込みを繰り返しました。多くの人達は、わたしの冷酷な言動に翻弄され、また、懐疑的な目を向けるようになったことでしょう。いつの間にかわたしは、分別もつかない無様なただの悪たれ爺に成り下がっていました。人間としてのわたしの醜い本性を垣間見ました。

 今は、昔の原点に立ち戻って「梵字守護符」の制作を主軸に、ひたすら霊的行使を続行したいと思います。冥府の力を預かっている霊符師として、同時に灰汁の強い彫刻家として、この身が倒れるまで続けたいと思います。今後は、作品としての「守護符」の制作に挑みます。たくさん作るのではなく、いい作品を少しだけ残せればと思っております。
                                (2013.07.07)


入院中に深夜の訪問者が… 

ベランダから見た陽矢

 この5月3日の祝日に、おめでたくない話なのですが再び緊急入院しました。昨年10月に壊れた井上君(胃の上=心臓)がまた駄目になって、だらしないのでありますが、まあ死んだらお終いですから修理してもらうことになりました。

入院5日目の未明、目を覚ますと穏やかな顔をした友人が見下ろしてました。「おい、大丈夫か…?」に「鬼の撹乱だからなぁ…」と言いながら不思議には思わず、深夜の屋上で1時間程でしょうか、取り留めのない世間話をしました。

 「医者と喧嘩するなよ…」の一言を残して友人は帰って行きました。うとうとしたかと思う間に朝になりました。夢ではなく、現実と認識をしたのは、友人が5年前に開いた個展の招待状をベッドの隅に見つけた時でした…。話している時の声や息づかいは友人そのもので、最後に交わした握手も人間の温もりでした。

 友人は、「十一人会」の仲間で、先日4月9日に路上で急死していました。2月に見舞いに来てくれた時の「お前の病は、俺が背負って行くから…」の声が何度も甦って来ます。不謹慎かも知れませんが彼が天上界に上がる時に、わたしの「病」を本当に連れて行ってくれると助かるのですが…。別庵の仕事は、みなさんにとりましては不思議でしょうが、わたしにも不思議なことはたくさんあります…。 (2013.06.06) 



少年の夢は、果てしなくつづく…

学内の通路・秋

 粗暴だった幼少期を越えて大人への意識を持つようになると、人が変わったように急速に視野を広げ、主観の塊へと変貌してゆきました。しかし、相変わらず生意気で嫌われ者で、常に周囲とは隙間がある門外漢の毎日で子供らしくない特異な少年でした。

 流行や常識的視点にはまったく興味がなく、ひたすらひらめきのみを道筋に無軌道に動き廻り、遂には自分の中に居た「大天使」の存在を発見しました。人間の時の流れからすれば奇妙な話なのですが、1100年前の自分からすれば200年余り後の子孫にあたる密教の僧侶が、現在の自分の中の大天使に当たるのです。

 哲学、医学、物理学などの中の一点にのみ強い興味を持ち、我武者羅に知識(書店立読みで記憶)を掻き集める時期が一年半程続きました。 この頃から霊的な感覚が更に明確化して、科学との融合を模索するようになり、哲学+医学+霊力=『新世界』とし、その糸口を探し廻りました。15歳の誕生日に、残り30年間の行動計画をつくり、『新世界』をその旗印にしたのです。つまり、その時すでに寿命が45年であることを悟っていたのです。

 あれから50年が経ち、紆余曲折の末、結果的に活動し続けているのが別庵の仕事です。寿命から20年をも越えようとしている最近、どうやらゴールが見えてきています。独自の計算法からすればすでに110歳を越えて生きている訳でありますし、あとは緩やかな坂道をゆっくり下って行けばそれでいいのかも知れません…。しかし、少年の頃の夢は、まだ終わったわけではありません。来世への伝承の仕掛けを秘かに画策しています。
 (2013.05.23)



モンマルトルの丘の家…

タイラー邸

 パリを中心に活動する時は、いつも老夫婦が住む石造りの大きな家の一角を間借りしていました。銀行の頭取だったご主人は、端正な顔立ちのイギリス人でチェスの名人でした。一方の奥さまは、典型的なフランス人で小柄ながらもとても機知に富んだ細身の美しい才女でした。それに、英語が通じる真黒いラブラドールのトビー君…。

 わたしの部屋は、見晴らしのいい3階の南西側。書斎と広いリビングと寝室(バス・トイレ併設)で、昔から「亡霊の部屋」といわれ、誰も住んでいなかったそうです。確かに古い霊体は、20体程うろついてましたけど、特に酷いのはいませんでした。インチキ不動産屋の勧めでそこに住むようになったのですが…。

 間借りなので外食のつもりでいたのですが、何故か最初から食事に呼ばれることになり、逗留中はいつもご馳走になっていました。どうやら、わたしのことを、カーレースの事故で亡くした一人息子さんとダブらせていたようで、少し複雑な思いでした。しかし、わたしも息子さんの役を演じることで、心を近づけることができたような気がします…。

 バイヤーの仕事から身を引き、その後退職して彫刻家に戻ったのですが、あれからもう25年が経ちます。 老夫婦が昇天した後のあの豪邸は、遺言で無償のアトリエとなって、現在8人の画家の卵が生活しているようです。時の経つのは、実にはやいもので、わたしもあの時の老夫婦の歳に近づいています…。 (2013.04.23)
 

睡蓮・拡大

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